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生の価値を打ち消さない方向性



善と悪についてを、私達はこう考えます。


善=生の価値を打ち消さない方向性
悪=生の価値を打ち消す方向性

人が生きるにおいては、さまざまな試練があります。

特に、自分がどう動くことが正しいのか?を悩む場面では、何らかの指針に耳を傾けるのも一考です。しかしてその指針は我々人間の中に在ります。

他人に対してでも自分の対してでも、善を選ぶというその選択を自らにさせることの根源が

我々人間の中に在るのです。

ただし、善というのは単に道徳的な意味での善のことではありません。

あくまでも「生の価値を打ち消さない方向性」という意味で申し上げております。






さて、「生の価値」とはどのようなことなのか?

それは、人として、快の感受が可能である状態を指します。
これが生の価値です。

対象を快感覚することが出来る状態。

少しでも快感覚へと仕向ける状態。

この快感覚を感受可能な状態に在ることこそが生の価値です。


快の可能性が無い状態への方向性は、それすなわち生の価値を打ち消す方向性なのであり、悪です。

快の可能性が、たとえ可能性だけであっても得られないような方向性は、生の価値を打ち消す方向性であり、よって、それは悪であります。


善を選択するということは、
人として、快の感受が可能である状態を選択することと等しいのです。




ではさて、

快とは何でしょうか。

快に対する感覚は、どこから来るのでしょうか。


快というのは、不快と共に感情においてもっとも基本的な傾向をなすものと考えられおり、

快、その起源は古代ギリシアにまで遡ることができるほど、人の根源に関わる感覚を指す語でもあります。


精神分析学では、快感原則ということで説明しようとしている感覚性が「快」でもあります。

「人間には不快を避けて快を求めようとする傾向がある。」← これが快感原則です。

我々人間は、その日常生活上で、「快あるいは不快」という基本感情による行動決めが為されており、心理学的事実として、「快の場合においてはその行動を持続させようとする傾向」も有ります。


全ての人間が、快の場合はその快を持続させようとし不快の場合はその不快を拭払したいと思案します。

つまり、

この - 快を得ることが可能な状態 に在る我が身-こそ、そのまんま、生の価値に在る我が身に匹敵します。


最古の力を持った守護水が善であると言えるのは、
全ての人々を対象に「快を得ることが可能な状態への維持」に対してを守護るからです。
なので守護水は、生の価値を打ち消さない方向性上に在ります。






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